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51話 動き始める、次の一手

last update publish date: 2026-09-16 16:30:52

 翌日から、エリナは動き始めた。

 といっても、急いでいるわけではなかった。

 落ち着いて、一つずつ。

 謁見の翌日以降に何をするかは、帰り道の馬車の中でゴードンと話し合っていた。

 優先順位は決まっていた。

 一つ目、商会の代表変更の正式書類を処理する。二つ目、各町の現場責任者に謁見の結果を報告する。三つ目、フィオナと連携して規制案の継続審議への対応を続ける。四つ目、学院の衛生教育の検討に、商会として協力できることを提示する。

 どれも、急ぎではない。

 でも、止まってもいない。

 まず、商会の代表変更の書類が届いた。

 アルバ殿下が約束した通り、一週間以内に書状が来た。

 正式な書類に、エリナ・アッシュフォードの名前が入っていた。

 アッシュフォード商会の代表者、エリナ・アッシュフォード。

 ゴードンがその書類を机の上に置いた。

「これで、正式になりました」

「そうですね」

「どういう気持ちですか?」

 エリナは少しだけ考えた。

「思っていたより、静かな気持ちです」

「静か、とは」

「もっと大きな感情が来ると思っていた。でも、静かだった。当たり前のことが、形になった、という感じです」

「それが、正しい感覚だと思います」ゴードンが静かに言った。「当たり前のことを積み上げてきたから、当たり前に形になった」

「ゴードンさん」

「はい」

「代表名義をずっと引き受けてくれていた。本当にありがとうございました」

「礼はいりません。でも、受け取ります」

 それだけだった。

 それで十分だった。

 次に、各町の現場責任者への報告をした。

 マグダ、シェナ、ジルカに、それぞれ手紙を書いた。

 謁見の結果。陛下が約束を守ってくれたこと。商会の活動が引き続き認められたこと。今後も続けることができること。

 返事は、それぞれ三日以内に来た。

 マグダから。

 エリナちゃん、よかったよ! ヴァロウのみんなに伝えた。おばあちゃんたちが喜んでた。これからも続けてくれるって言って、よかったって。あたしも、よかった。

 シェナから。

 届いたことを、嬉しく思います。トレネでも、続けます。新しい薬草の採取場所を整備しています。来月には、供給量を少し増やせると思います。

 ジルカから。

 キーシュでも、皆さんに伝えました。海沿いのルートは、引き続き整えています。商会の代表がエリナさんご自身になったと聞きました。当然のことが、形になりましたね。おめでとうございます。

 三通の返事を、ゴードンと一緒に読んだ。

「それぞれが、それぞれの言葉で返事を書いてくれている」

「そうですね」

「マグダさんの『よかった』が三回あるのが、マグダさんらしい」

「そうですね」

 エリナが少しだけ笑った。

「ジルカさんの『当然のことが形になりましたね』という言葉も、ジルカさんらしい」

「全員、違う言葉で、同じことを言ってくれている」

「そうです」

 フィオナからも、定期報告が来た。

 エリナへ

 規制案の動きを引き続き追っている。クロヴェルは、今のところ大きな動きを見せていない。謁見の結果を受けて、少し様子を見ていると思う。

 ただし、油断はできない。クロヴェルは長期戦が得意だ。次の手は、すぐには来ないかもしれないが、必ず来る。

 アルバ殿下から聞いた話がある。陛下が、アッシュフォード商会の活動を「王国の新しい試みの一つ」として、宮廷内で言及されたらしい。これは、大きい。陛下が公式な場で言及することで、商会の存在が宮廷内で正式なものとして認識される。

 クロヴェルが次に動く時、それが以前より難しくなる。

 こちらは引き続き動く。

 それと、ダリウスのことを少し書く。

 謁見の後、ダリウスが私に会いに来た。何を言うかと思ったら、「結果を聞いた。おめでとう」とだけ言って帰った。

 それだけだった。でも、来てくれた。

 あの人は、複雑なまま、動き続けている。

                                     ――フィオナ――

 エリナはフィオナの手紙を読んで、ダリウスの話を少しだけ考えた。

 「おめでとう」とだけ言って帰った。

 それだけ。

 でも、来てくれた。

 ダリウスが、どういう気持ちで来たのか、エリナにはわからない。

 でも、来たことは確かだ。

 エリナは返事を書いた。

 フィオナへ

 陛下が宮廷内で言及してくださった話、ありがとうございます。クロヴェルへの牽制になりますね。

 ダリウスの話、読んだ。「おめでとう」とだけ言って帰った。それだけで、十分だと思います。来てくれたことが、大事だから。

 引き続き、よろしくお願いします。

 一つ、フィオナに聞きたいことがある。

 フィオナが王都に来て、一年以上経ちました。疲れていませんか。今度こそ正直に答えてほしい。

                                      ――エリナ――

 フィオナからの返事は、翌日来た。

 正直に答える。

 疲れている。

 でも、止まりたくない。矛盾しているけど、両方本当だ。

 疲れているから、少し休みたいとも思う。でも、止まると次に動き出すのが難しくなる気がして、止まれない。

 これは、あなたに似ているかもしれない。

 一つだけお願いがある。ルシェムに行く時期を、少し早めてもいいか。春になったら、と思っていたけど、もう少し早く行きたくなった。

                                        ――フィオナ――

 エリナはすぐに返事を書いた。

 フィオナへ

 正直に答えてくれてありがとう。

 いつでも来てください。来週でも、来月でも。ルシェムはいつでも待っています。

 マリオに言っておきます。部屋を片付けておくように。

                                      ――エリナ――

 マリオに伝えると、少し目を丸くした。

「フィオナさんが来るのか?」

「近いうちに」

「どのくらい近い?」

「わからない。でも、早めに来たいと言っていた」

「そうか」

 マリオが少しだけ嬉しそうな顔をした。

「久しぶりだな」

「部屋を片付けておくように、と伝えました」

「俺の部屋か?」

「フィオナが泊まれる場所を、という意味です」

「ああ、そういうことか。わかった。ゴードンさんに相談して、どこか手配する」

「よろしくお願いします」

「それと」

 マリオが少し声を落とした。

「フィオナさん、元気か?」

「疲れている、と言っていました。正直に」

「そうか」

 マリオが少しだけ顔を引き締めた。

「じゃあ、来た時にゆっくりできるようにしておく」

「ありがとうございます」

「俺にできることは、それくらいだからな」

 その週、レインからも手紙が来た。

 エリナへ

 学院に戻った。師匠と、衛生教育の件について話し合いを続けている。

 一つ、報告がある。師匠が魔法師団長に提案書を出した。来年度から、学院の一般課程に「衛生基礎」という科目を設ける提案だ。内容は、石鹸の使い方、薬草薬の基礎、傷の手当ての手順。

 魔法師団長は「前向きに検討する」と言った。

 もし正式に採用されれば、アッシュフォード商会の商品が、教材として使われることになるかもしれない。その場合、商会として学院に供給することを検討してほしい。

 それから、一つだけ。

 昨夜、また図書室に行った。アッシュフォード侯爵の記録のページを、また開いた。

 今日は、その隣のページも読んだ。建国期から現在までの改革案の記録が、いくつか載っていた。その中に、侯爵の案が一行だけ引用されていた。

「魔法に頼りきらぬ国を目指した改革案」と書いてあった。

 それが今日、少し違って読めた。

 残っている。

                                       ――レイン――

 エリナは手紙を読んで、しばらく動かなかった。

 残っている。

 父の案が、記録書に残っている。

 『魔法に頼りきらぬ国を目指した改革案』

 一行だけ。でも、残っている。

 レインが、今日それを読んで、エリナに届けてくれた。

 返事を書いた。

 レインへ

 衛生教育の件、ありがとうございます。学院への供給について、ゴードンさんと検討します。商会として、できることをします。

 図書室の話、読んだ。

『残っている』という言葉を、受け取った。

 父の案が一行だけ残っていて、レインがそれを読んで、私に届けてくれた。

 今日、私が謁見の間でやったことは、その一行の続きだったかもしれない。

 うまく言葉にできないが、あることは確かだ。

 それを、あなたに知っていてほしかった。

                                      ――エリナ――

 書いて、封をした。

 「今日、私がやったことは、その一行の続きだったかもしれない」という一文を、書く前に少しだけ考えた。

 でも、本当のことだから書いた。

 夕方、エリナは作業場に入った。

 棚の前に立って、石鹸の在庫を確認した。

 マリオとルナが管理してくれていた。

 問題はない。

 でも、確認したかったのは在庫だけではなかった。

 ここに来ると、最初の頃を思い出す。

 台所で一人、型に液体を流し込んでいた頃。

 マリオが初めて来た日。

 ルナが廃屋の前に座っていた日。

 ゴードンが「この娘は本物だ」と言った日。

 全部、ここから始まった。

 これからも、ここから始まる。

 エリナは作業場を出て、長屋の前に立った。

 ルシェムの夕方の空が、冬の終わりに近い光を帯びていた。

 少しずつ、日が長くなっている。

 春が来る。

 フィオナが来る。

 レインが来ると言った。

 次の一手が、もうある。

 でも、今日の夕方は、ただここに立っていた。

 ルシェムの空を、見ていた。

 夜、エリナは机に向かった。

 今度は、作業リストを書いた。

 商会の代表変更の書類の保管。衛生教育への供給検討。フィオナの来訪の準備。各町の在庫確認。規制案の動向監視。

 書きながら、少しだけ笑った。

 また動き始めている。

 それが、自分だ、と思った。

 帰ってくる場所があって、また動き始める。

 それが、エリナ・アッシュフォードという人間の、今の形だった。

 ランプを吹き消した。

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 今日から、また動き始めた。

 帰ってくる場所があることを知った上で、動く。

 それが今夜、一番確かなことだった。

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